Special Interview
歴史の糸をたぐり、ふたたび物語を紡ぐー。
今、この地に薩摩樟脳の香りが、時を越えて甦ろとしています。
約420年前に朝鮮陶工の渡来
と共に、日置市東市来町美山にもたらされたとされる樟脳の製造技術。江戸時代には薩摩藩の大きな収入源として製造・輸出され、海外では「サツマカンフル」として珍重されたという歴史があります。後に合成樟脳が普及したことにより、天然樟脳作りは息をひそめましたが、時を経た今、その価値を再認識し、世に伝えていきたいと薩摩焼420年の歴史を受け継ぐ沈壽官窯の当主15代沈壽官を中心に有志が集まり、薩摩樟脳復活プロジェクトが立ち上がりました。
その歴史的意義やクスノキから生まれる結晶の不思議な魅力、本場薩摩樟脳に描く夢について、沈壽官窯の当主15代沈壽官が、鹿児島県歴史・美術センター黎明館の主任学芸専門員深港恭子さんを迎えて語り合いました。
鹿児島県歴史・美術センター黎明館
主任学芸専門員
深港恭子
西南学院大学卒業後、1993年黎明館資料調査編集員、
2008年薩摩伝承館学芸員、2016年黎明館主任学
芸専門員美術・工芸(薩摩焼)担当となり現在に至る。
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018年の明治維新150周年記念黎明館企画特別展
「華麗なる薩摩焼―万国博覧会の時代のきらめき―」等多
数担当。2024年第
45
回小山冨士夫記念賞奨励賞受賞
沈壽官窯
十五代 沈壽官
朝鮮陶工
沈当吉を祖とし、420年以上にわたり薩摩
焼の伝統を守り続ける沈壽官窯の当主。早稲田大学卒業
後、イタリア国立美術陶芸学校で学び、1999年十五
代を襲名。
2010年パリのエトワール美術館にて「歴
代沈壽官展」、2018年「薩摩焼420年沈壽官窯展」
を開催。2021年には駐鹿児島大韓民国名誉総領事に
就任し、日韓文化交流にも尽力している。
薩摩樟脳の歴史
十五代沈壽官さん
(以下、十五代沈壽官)
深港さん
(以下敬称略)
樟脳がテーマとお聞きして、私も以前から関心がありまして、楽しみにして参 りました。平成 29 年(2017)に企画した黎明館企画展「1867年パリ万博150周年記念 薩摩か らパリへのおくりもの」、そして翌年の明治維新150周年記念黎明館企画特別展「華麗なる薩摩焼―万 国博覧会の時代のきらめき―」に向けた調査の中で、慶応3年(1867)のパリ万博に薩摩藩から出品さ れたものの一つとして樟脳の記録があり、薩摩産の樟脳について調べたことがありました。
十五代沈壽官
江戸時代にパリ万博に出品されるほど薩摩藩の重要な産品だった樟脳ですが、まずあらためて日本における樟脳製造の始まりについてお話いただけますか。
深港
日本に樟脳製造技術をもたらしたのは、約420年前に鹿児島に来た朝鮮陶工の鄭宗官(ていそう
かん)によるものという説が現在有力です。その根拠となるのが、沈家に伝わる古文書です。沈家には数千
点に及ぶ古文書や歴史資料がありますが、その中の『樟脳製法発明為致事件ニ依リ奉歎願書』に、沈家と同
時期に鹿児島に来た朝鮮陶工の一人に、樟脳の技術を持った鄭宗官という人物がいて、樟脳の製造技術を
伝えたと記されています。明治6年(1873)頃に記されたもので、日本の樟脳製造の歴史を語る上で貴
重な資料です。
樟脳製造が始まった時期については、朝鮮陶工の鄭宗官が伝えたという説の他にいくつかの説があり、
『樟脳専売史』には元禄年間(1688〜1704)頃に琉球から伝わり始まったとあります。けれども、薩
摩藩の記録には寛永9年(1632)の段階ですでに樟脳が製造されていたことを示すものがありますの
で、元禄年間に始まったのでは間に合わない。 また、江戸幕府から与えられた朱印状を持った西国大名らが東南アジアなどに行った朱印船貿易で樟脳は輸出品となっています。この朱印船貿易は、鎖国体制がとられる1630年代には終了しますので、
これ以前に樟脳の製造が開始され、海外への輸出も始まっていたことは間違いないのです。
そうすると、朝鮮陶工が鹿児島にやって来た1598年頃に樟脳製造技術が伝来し、やがて生産が始まり、
1630年代には海外輸出も行われていたと考えると、時代として非常に良く符合していると考えています。
十五代沈壽官
この文書が書かれたのは明治6年頃ですが、明治時代に入って新政府が各県の特産品や過去の功労 者を検証するのに資料を出させたとのことです。そこで先ほどの樟脳に関する資料を作成したというこ とでしょうか。
深港
この資料は嘆願書となっていて、鄭宗官の子孫である鄭宗順が、元祖である鄭宗官以来、家職とし
てきた樟脳製造が、明治に至り藩の保護を失うと共に、機械化の影響を受けて存続が困難になっている現
状をふまえ、おそらく県に対して救済を求めたものの控えだろうと思います。
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代さんがおっしゃるとお
り、明治6年(1873)のウィーン万博にあたり、新政府が行った調査がきっかけになった可能性もあり
ます。万博には鹿児島県も出品していますが、この時に明治政府は全国の産業調査を行っていて、博覧会
事務局に多くの調査資料が提出されています。薩摩焼についての歴史や製造技術に関する資料も残され
ていて、それらの多くが明治5年に提出されています。
樟脳は明治を越えるあたりまで重要な産業だった
ので、沈家に伝わる鄭宗官による樟脳製造技術についても、薩摩でどのような技術があったかという調査
が行われた可能性があります。
十五代沈壽官
その資料によると、鄭宗官は朝鮮陶工の 一人としてこの苗代川(現:美山)の地に定 住し、樟脳製造も手掛けたと。
深港
鄭宗官が薩摩藩の許可を得て樟脳製 造を始めた場所は、雪の山だと言われていま す。おそらく、現在の美山地区内にある雪山 遺跡がある辺りの山ではないかと思ってい ます。鄭宗官は職人に技術を伝えて、自分自 身はその技術がある程度安定した段階で素 焼き鉢の製造に専念した、と記されていま す。樟脳製造と焼き物の技術は繋がりが深い ことを示しています。
十五代沈壽官
当時の製造法は焙烙式(ほうろくしき) ですよね。
深港
そうですね。この資料には、羽釡の上 に鉄桶を立て、桶の中にクスノキの木片を入 れて、素焼き鉢を伏せてかぶせながら5日ほ ど焚くと、鉢の中に樟脳が付着するとあります。焙烙式には素焼き鉢が必要だったので、 朝鮮陶工の方々がもたらした焼き物の技術 と樟脳の製造は非常に親和性が高いと言え ます。お聞きしたいのですが、焙烙式に使う 素焼きの鉢の制作には特別な技術が必要な のでしょうか。
十五代沈壽官
素焼きの鉢は、特別に高い技術が必要な わけではありませんが、一方で、焼き物の産 地でなければできないという側面もあると 思います。美山で樟脳製造が始まり、薩摩藩 領の広域で樟脳が製造されていたということですから、焼き物も各地で作られていたのだと思いますが、ここ美山から派生していって、各地に移住 していった陶工さんたちも関わっておられたのかもしれない…と思っています。そのことに思い至った のは、南洲墓地(西南戦争の薩軍戦没者慰霊の地)を訪れた時、川辺など各地から西郷軍に加わった兵士の 墓碑に、朝鮮名の方々が多く刻まれているのを目にしたからでした。彼らが各地で樟脳製造にも関わって いた可能性があるのではと想像しています。
深港
そうかもしれませんね。江戸時代は薩摩藩領の幅広い地域で盛んに樟脳が製造され続けました。長
崎のオランダ商館の記録には、元禄
14
年(1701)にオランダ商館が輸出した国産樟脳は、その全量が薩
摩産樟脳だったことが記されています。この頃の日本樟脳の歴史は、薩摩樟脳の歴史そのものであると
言っても過言ではないと思います。
薩摩藩の樟脳生産は、その後正徳年間(1711〜1716)に藩の専売制となります。製造を許可制と
して、一年の生産量を
12
万斤(きん)と定めて長崎に輸送し、中国やオランダへ輸出していました。
12
万斤
といえばおよそ
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トンですから、すさまじい量ですよね。
十五代沈壽官
薩摩藩領では原料のクスノキがなくなるくらい、盛んに製造していたと…。
深港
そうなんです。薩摩藩で樟脳製造が盛んになった大きな要因は、クスノキの生育に適した温暖な土 地であったことにありますが、その豊かなクスノキの資源を取り尽くすほど製造が盛んだったようで、鎮 守の森のクスノキまで伐採したという記録もあります。後に懸命に植林をしたようですが…。専売品なの で薩摩藩が製造を管理していて、株というチームを作り、リーダーがいて焼子(やきご)といわれる職人 4、5人がつく。クスノキが生えている山に割り当てられて、木屋という小さな工場で樟脳を作り、木がな くなると次の場所へ移っていく、という形だったようです。天保 14 年(1843)に編纂された薩摩藩の地 誌の集大成と言われる『三国名勝図会』には、薩摩・大隅・日向地域で製造されていたとあります。領内全 域の至る所で樟脳が製造されていたようですね。
十五代沈壽官
専売品として製造し、それだけの規模で生産され、輸出されていたことを考えると、樟脳に需要が あったということだと思いますが、樟脳の用途としては、やはりカンフル剤としてでしょうか。当時、ヨー ロッパの女性の間でウエストの締まったドレスが流行していて、時々は気を失うほどだったと…。その時 にこの樟脳をかがせるとパチッと目を開けるという。
深港
そうですね。樟脳の用途としては、当時のヨーロッパでは医療用のカンフル剤(強心剤)として使わ
れていたようです。日本での用途は芳香や防虫があったと思いますが、藩が大量に製造していた目的は、なんといってもヨーロッパや中国に輸出することによって利潤を上げることでした。
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世紀にはヨー
ロッパや中国に盛んに輸出されて、金・銀に次ぐ重要な輸出品となったのです。
幕末の近代化事業を推進した島津斉彬が藩主になると「国産の最も心を用ふべきものは第一の砂糖、第
二に櫨蝋、第三に樟脳等にして、此上品位の上等なる品を研究すべし」としています。この頃に焙烙法から
蒸留法に道を開いた、という記録もありますがはっきりしたことは分かっていません。
十五代沈壽官
江戸時代には薩摩藩で樟脳は大変重要な産品であり、島津斉彬公の下でも、さらに品質を高める努力 もなされていたということですね。ここから慶応3年(1867)のパリ万博出品へつながっていくとい うことですね。
パリ万博と薩摩樟脳
十五代沈壽官
慶応3年(1867)のパリ万博への薩摩樟脳の出品についてですが、まず薩摩藩のパリ万博への出 展そのものが国際的にも大きな出来事であったということですよね。
深港
日本が初めて正式に参加したのが1867年のパリ万博なので、それ以前から少しずつは日本の ものがヨーロッパにもたらされていたにせよ、世界の人々がまとまった形で日本の文化に触れたのはパ リ万博が初めてのことでした。ヨーロッパに強いインパクトを与え、そこから一気にジャポニスムという 日本ブームの時代が訪れます。中でも薩摩藩が出品した沈家の作品に代表される薩摩焼は高く評価され、 薩摩焼ブームが起こります。ヨーロッパの自然の捉え方とは全く異なる、日本的な捉え方の植物模様の美 しさ、表面が貫入に覆われた象牙色の肌をした薩摩焼特有の魅力が、ヨーロッパの人の目には、これまで 目にしたことのない新たな美だったのです。その後、海外ではジャポニスムブームが起きて日本コレク ションが形成されていくわけですが、薩摩焼が入っていなければ、日本のコレクションとして不完全であ るとされるほど、 19 世紀に入って初めて西欧の人々が出会った日本の美を象徴する焼き物として、薩摩焼 は高く評価されたのです。
十五代沈壽官
当時ヨーロッパの人たちは日本という国のことをよく知らなかったし、日本の焼き物のこともあま り知らなかった。東インド会社によってもたらされる焼き物が、いわゆるアジアの焼き物だと思っていた わけです。ところがそうではない全く異質の白い陶器がパリ万博に登場して、これは何だ、見たことない ぞという。ヨーロッパの人たちが初めて見るもの、これはどこからきたのか、不思議の国・日本だよ、とい うことになったわけですね
深港
そうだと思います。薩摩藩が大きな存在感を示したパリ万博をきっかけにした薩摩焼ブームは
ヨーロッパからアメリカ、さらに世界へと広がりながら、昭和初期くらいまで続きます。
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代沈壽官は薩
摩焼の中でもいち早く、明治8年(1875)に民営の窯元として創業し、薩摩焼の海外輸出を牽引してい
きますけれども、幕藩体制が解体された後の日本において、藩から扶持をもらって焼き物作りに携わって
いた人たちが仕事を失い、この先どういう動きをすれば生きていけるのかを模索していた時に、薩摩焼は
一つの進むべき道を示したのではないでしょうか。江戸時代の間に薩摩焼が海外への販路を掴んでいた
ということは、そこに参入していけば生きていけるという一筋の光になっていたと思いますね。
ちょっと政治的な話になってしまうのですが、薩摩藩は江戸幕府の下での出品とは別に、幕府には秘密
裏に単独で「琉球公国(薩摩琉球国)」としても参加を果たしました。パリ万博が開催された1867年は、
国内的にみると薩長同盟が結ばれ倒幕運動の真っただ中でしたので、江戸幕府と薩摩藩は対立構造にあ
ります。参加の目的が貿易を開くことにあったにせよ、薩摩藩の二重出品によって、その対立構造がフラ
ンスに飛び火し、パリを舞台に露見することになるのです。
十五代沈壽官
最後まで幕府にはパリ万博を一緒にやりましょうっていう話を薩摩藩は確約をしている。幕府もそ れを信じていた。しかし、トーマス・グラバーと組んで船を送り、その荷物がマルセイユに到着した時に 初めて幕府は単独出品の意志ありだと気づき、渋沢栄一がパリの街で臍(ほぞ)を噛む(大河ドラマ「晴天 を衝け」)っていうのはまさにそのシーン。それで博覧会事務局に抗議するんですけれども、すでに薩摩藩 は琉球公国としてエントリーし、展示も始めていた…ということですよね。
深港
幕末期、フランスは江戸幕府を支援していました。一方、薩摩藩は薩英戦争を契機に、敵対したイギ リスとお互いに認め合う関係になっていて、イギリスは薩摩藩を支援していました。そして、フランスと イギリスは国際的にはライバル関係にあるんです。万博においても、イギリスが万博を開催すれば、それ を凌ぐ規模でフランスが万博を開催するといった具合に覇を競っています。そんな中で薩摩藩は、自分た ちは一つの国であるというような演出をして、パリ万博で大きな存在感を示した。これはフランスの立場 で考えれば、日本という国を治めているのは自分たちが支援している江戸幕府なのか?という点に疑念 を持たざるを得ない状況を、自国のパリで目の当たりにしたわけです。その影響により、結局、江戸幕府が望んでいたフランス皇帝との借財の締結が破談になります。
十五代沈壽官
結局フランスは、日本のことを徳川ファミリーの国だと思い込んでいたんですよね。ところが、別の 勢力が存在感を示すようになっていて、国内では薩長の連合軍がイギリスなどの西欧列強から購入した 最新鋭の武器を備えて倒幕の中心勢力となっていた。その活動をしながら、1万キロ離れたパリで存在感 を見せつけた。それで最後の首都防衛のためのフランスからの資金提供が実現せず、大政奉還、そして江 戸城の無血開城へとつながっていく。
深港
江戸幕府は幕末を乗り切る資金を失って、軍艦や武器を買うことができなかった。そこで資金を得 ることができていたら、状況は変わっていたかもしれません…。
十五代沈壽官
まさに、薩摩の大博打と言えるような状況ですね。パリ万博では、薩摩のパビリオンを作るのにも薩 摩藩の大工が行っているわけでしょう。現地で墨壺などの珍しい大工道具を器用に使って、職人が手際よくやる。それすらもヨーロッパの人たちにしてみれば、ものすごく面白かったと思います。当時はスエズ 運河がまだ開通してなかったので、スエズで船から荷物を下ろして、陸路で運搬されていく。薩摩藩士た ちも歩いて移動する場面もあったでしょうから、注目を集めたと思いますよ。薩摩藩の出品物には、美術 品もあるし、樟脳もあるし、櫨蝋もある。切子もありましたか?
深港
ありました。パリ万博のフランスで出された出品目録に、集成館事業の責任者・竹下清右衛門の名 の下にカットグラス、クリスタル、ブルーなどと書いてありますので、薩摩切子に間違いないと思います。 樟脳については、輸出品として力を持っている時期ではありますが、国内生産の中心地は土佐へと移って いましたので、薩摩藩は鹿児島で作られる樟脳の品質を知ってもらい、新たな販路を開拓するために出品 したのだと思います。実は、当時の万博って片道切符なんです。行きは政府がお金を出してくれても、持っ て帰る分は自費。だからみんなとにかく売りたいと。佐賀藩などは売れ残ったものを必死に売ろうとした 記録が残っていますが、薩摩藩の場合は、かなり売れたと思うのですが、記録が残っていないのです。
十五代沈壽官
当時の万博っていうのはありとあらゆるものを持って行って、自分の国の紹介をする場所だったそ うですね。しかも現地で売買もされていた国際商談会であり、見本市でもあり、同時に技能オリンピック でもあった。だからメダルもあった。万博ってそういう意味合いを持っていたんです。近代オリンピック のメダルよりも歴史が古いのがエキスポのメダルですから。その万博で薩摩樟脳は「サツマカンフル」と して存在感を示したのではないでしょうか。明治維新前夜の歴史の変わり目に薩摩樟脳も関わっていた と考えると、感慨深いですね。
深港
樟脳製造は、薩摩藩だけではなく、土佐でも宝暦2年(1752)に始まり、土佐式といわれる蒸留 法が広まり、明治以降も用いられました。また、統治時代(1895〜1945)の台湾へも広がり、大量生 産が実現します。明治 32 年(1899)には台湾でも専売が始まり市価も急騰。それに伴って国内樟脳製造 も発展し、明治 36 年(1903)には内地・台湾共通の専売法が制定されました。昭和初期までは軍需資源 として増産されましたが、その後、合成樟脳の登場もあり製造は減少し、昭和 37 年(1962)に専売制廃 止、という経緯を辿ります。
薩摩樟脳の復活
深港
江戸時代を経て、明治、大正、昭和と続いた樟脳製造ですが、合成樟脳の台頭もあり、天然樟脳の製 造は激減しました。現在、国内で天然樟脳を製造しているのは数カ所のみとお聞きしています。そんな中 で、薩摩樟脳の復活を決心された訳ですが、何かきっかけになった出来事があったのでしょうか。
十五代沈壽官
先ほども話にありました沈家に伝わる古文書の記録をもとに、昭和
60
年(1985)に「樟脳製造創業
之地」という記念碑が美山に建ちました。先代の
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代沈壽官が碑の建立に向けて精力的に活動したようで
す。専売公社に建立を働きかけた手紙が今も残っていますが、我々は壼屋の高麗人というだけではなくて、
世界に一番近いところにいた、という一つの証として樟脳の由来を記しておきたかった。そして、ここに暮
らす人たちに自信をつけてもらいたかった、ということだと思います。先代は県や東市来町の文化財に関
する役も担っていたし、歴史に詳しく、また好きでしたから、どうしても実現させたかったのだろうと…。
碑ができた時に僕は
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代半ばで、それが樟脳との最初の出会いですね。それから時を経て、平成
30
年
(2018)の黎明館の特別展「華麗なる薩摩焼―万国博覧会の時代のきらめき―」の折に、パリ万博の資
料を見る中で、深港さんからもいろいろな情報をいただいて、薩摩藩の出品リストを拝見すると、こんな
物品を出したのか…と驚くことがあり、樟脳がそこにあったということですね
深港
そこで再び樟脳に出会われたのですね。
十五代沈壽官
それまで、家業として僕は何百年も続いてきた家を潰すわけにはいかないという責任感の下で、この 仕事にずっと携わってきました。そして、 60 歳になったことを機に、自分で何かを始めてみようと思った 時に、歴史的にも社会的にも意義のある仕事ができないだろうかと思い、ちょうどそれがパリ万博のリス トで樟脳を見つけた時と重なったんです。「樟脳製造創業之地」の碑の記憶と結びついて、地域の仲間に 相談したら、それは面白いじゃないかと。そして、仲間たちとプロジェクトを立ち上げて樟脳の製造を模 索し始めましたが、本当に何も僕たちも徒手空拳というか、全く未知の世界で。その後、コロナ禍もあっ て一時活動が止まってしまいましたが、あらためて動き始めたということです。
深港
私も樟脳を調査するために、樟脳生産を続けている「内野樟脳」 (福岡県)に伺ったことがあるので すが、そちらにも通われて製法をあらためて学ばれたと
十五代沈壽官
仲間と行って話をお聞きし、本もいただき、貴重な樟脳の白い塊までいただきました。専売公社のマークの入った袋など、古い資料も見せていただきましたね。内野さんの製法は、薩摩藩で主流だった焙 烙式ではなく、土佐式といって、水蒸気蒸留によってクスノキから樟脳成分を抽出し、冷却して結晶化さ せるもので、近くに川が流れていて、冷却用の水を大量に使える場所でしたので、それが成立していまし た。ただ、美山は、美山の旧い名称は苗代川ですけど、苗代川という川は実はなくて高台なので、非常に水 に苦労したところなんです。水もない粘土もないところに焼き物屋がいること自体がともかくおかしい ですけれど。だから樟脳もこの土地では大量の水を使わずに作られていたということになると思います。
深港
土佐式蒸留法は根付かなかったでしょうね。この土地では難しいですよね。実際、樟脳製造の嘆願 書には、明治初期まで素焼き鉢を作っていたとあります。内野さんの工場では、大きな旋盤のような機械 を使われていて、見るもの全てが面白くて、工場内の風景をよく覚えています。
十五代沈壽官
今となっては造ることのできないような貴重な機械を大事に使われていましたね。当時は内野さん のご主人がお亡くなりになって、奥様が手伝ってくれる方と一緒に作られていたのですが、何というか、その職人技にかかっているんです。お湯の沸かし具合とか、僕なんか一番それで苦労していますよ。大変 な重労働だと思いますので、体力的にもご苦労も多かったんじゃないかなと推察しています。
深港
ここ美山では、これからどのような製法で樟脳を作られるのですか。
十五代沈壽官
水蒸気蒸留法を基本に、試行錯誤しているというところです。結局、精油を抽出する機械はあるんで すけども、結晶を抽出するという機械そのものは存在しなかったので、既存の機械を改良して、完全オリ ジナルというより改良型の機械で、よい成績を出せるようになってきている。これを基本に大量に製造で きるように技術を安定させたいということですね
深港
復活には大きなご苦労があるようですが、 15 代さんがこの美山という場所で薩摩樟脳を復活され ることにはとても大きな意味があると感じています。朝鮮から来られた方々がこの場所に入植して以来、 非常に大変だったと思うんですけれども、今があるということは、常に苦労を伴いながらも新しいことに 挑戦し、時代に合うものを作り続けてきたからですよね。 沈壽官窯は、薩摩焼の歴史、そして美山の歴史そのものを体現しているような場所ですから、美山の地 で同様に育まれていた薩摩樟脳という存在を 15 代さんが復活させるということには、美山の歴史と価値 を再生しつつ、美山の未来を紡ぐという意味があると感じます。
十五代沈壽官
僕がというか、薩摩樟脳復活に賛同してくれるプロジェクトチームのメンバーに恵まれたというのが、とにかく一番大きいです。いろんなキャリアやスキルを持った人たちが樟脳復活に懸命に取り組んで くれている。大人の自由研究で始めましたが、みんなの能力が樟脳製造という一つの目的に向かって結集 していって、どんどん前に進んでいます。天然樟脳というのが、皆さんがそこまで情熱をかけてくださる だけの、やっぱりすごくいいものなんだろうなっていう感が非常にするんですよ。
深港
天然樟脳の香りを嗅がせていただいたことがありますが、非常に心が静まるような感覚があり、 ヒーリング効果はすごいなと思いました。清涼感という言葉がいいのか、なんと表現したらよいのだろう かと思うのですが…。
十五代沈壽官
天然樟脳が社会的にこれからどれほど受け入れられ、どれほどの広がりを持つのかということに関 しては、全く未知数です。どこからか樟脳を作ってくれないかというオーダーがあったわけでもない訳で すから。ただ、漠然とした僕のフィーリングの中で、時代というのは非常にデジタルで、ボーダレスな世界 にどんどん進みつつあるように思えるのですが、だからこそ、天然樟脳のようなオーガニックであったり、エコロジーであったりとか、人が手で物を作るという、その真実の部分というものの重みが今後増し てくるのではないかと思っています。逆に言うと、例えばこれからAIが跋扈して大量のホワイトカラー が失職した時に、今度は新しい彼らの受け皿になり得るのではないかと。
深港
博物館業界の中でミュージアムIPMという考え方があります。収蔵品を虫やカビから保護する ために、これまでは化学的な薬品やガスを使ってきたのですが、監視・評価・対処という一連のプロセス を通じてできるだけ薬剤に頼らずに環境全体を整えていこうという方向へ進みつつあります。化学薬品 が出てくる以前はどうしていたかというと、例えば、掛軸や調度品などを保存するために、箱の中に樟脳 を入れたり、ウコン布で包んだりというのはよくやっていたことなんですね。樟脳も鬱金(うこん)で染め たウコン布も防虫効果がありますから。博物館などの収蔵品は膨大なので課題はありますが、地球と共生 するような形で文化財を守っていくところに立ち戻るべきではないかという方向に進みつつあります。 そういった考え方と樟脳はものすごく相性がいいのだろうと思います。
十五代沈壽官
そういった場面でも使われるようになっていったらいいと思いますね。用途としては、和装をされる方
の着物や、伝統芸能の関係者の方などが使っている舞台の衣装とか、そういったものの保全には天然樟脳は
適しているのではないかと。そして、樟脳の香りですね。人工的なフレーバーではない、天然樟脳ならではの
本物の価値をちゃんと分かってくれる人がいると思うので、そういった方に届くといいなと思います。
沈さん、何を作っているのですか、と聞かれるから、白い粉を作っていると。樟脳といっても知らない人
が多いし、発祥の地でありながら、地域の人も樟脳のことを知らない人もいます。薩摩樟脳の復活を実現
して、改めてこの美山の歴史も含めて再認識してもらえたらなという思いもあります。
深港
こうして振り返ってみると美山の歴史と、薩摩焼の歴史と、薩摩樟脳の歴史とが折り重なっている
気がしますね。420年前に始まりいつしか途絶えていたものが、再発見されて、今また時代に合う形で
復活し、未来を紡いでいくわけですね。そこにはロマンもあるし意味もあると思います。
15
代さんの作品を拝見していると、ザ・薩摩焼だという印象を受けます。本質的なものを持った薩摩焼
であって、これを薩摩焼ではないと見紛う(みまがう)人はいない。伝統的な原料であり、技であり、細工で
ありというのを自分のものにして、それらを手段にしているから、作品のデザインが斬新であっても、や
はりザ・薩摩焼だと感じられます。伝統を大切にしながら、新しいものに挑むという意味では、薩摩樟脳
にも共通するものを感じますね。
十五代沈壽官
やっぱり古いものから影響を受けていない作り手はいないと思うんですよ。過去のものからですね。 みんなやっぱり何かしらの影響を受けていると思いますが、とにかく繰り返し、繰り返し見ていくうち に、初めは気がつかなかったことが見えてくるということはありますね。最終的にこの作品が最初、僕が 魅力的だなと思ったところとだんだんポイントが離れていって、これの素晴らしさはここだったのだ、ということが時を置いてから分かることはあります。その大切なものが自分の中にある程度つかめた時に、 じゃあ、これをもし違うモチーフで表現するとしたら、どういうことができるのかということなのです。
深港
伝統に立ち返ることは本質に迫ることであるけれども、現代においてはこれほど難しいことはない ですよね。たやすく作ることができ、代わりのものもたくさんある中で、そこに向き合うことはある意味リ スクを負うし、チャレンジでもあると思います。それでも15 代さんが向き合っておられるのは、420年以 上にわたる美山の、薩摩焼の歴史を当初から背負い、名跡を現代まで繋いでおられる中での、美山に対する 矜持とか責任感とかいったものが支えになっているのかなというふうに思っています。
十五代沈壽官
過分なお言葉をありがとうございます。薩摩焼、美山の歴史には、守護大名となり、700年間鹿児島を 統治し続けた島津家の影響も大変大きいと思います。どこを探しても700年間も一つの武家がある地域 を統治したということはありませんので、そこから派生した様々なものに島津家の存在が強く作用したと 思います。薩摩藩の強さや評価も影響を与えたと思うし、人々には畏怖の念があったかもしれない。それぐ らい心の底の底まで島津家というものが入り込んだわけですよ。だからうちの 12 代が、例えば島津家からの 依頼を受けて海外のVIP、例えばロシア皇帝だとか、イギリスの皇太子への贈り物を作ることになります が、命がけの仕事だったわけです。島津家の影響力や重みというものが、芸術を高めてきた。芸術に限らず、 薩摩の本来ここにあった良質なローカルカルチャーというのは全部そうやって磨かれてきたはずです。
深港
島津家が大名であるためには、伝統文化をしっかりと享受して、かつ日常の中に取り入れることができなければならなかった。それは幕府であっても、どこの藩であっても、大名家であればみんな同じで す。武家儀礼というものが非常に高い文化レベルでありました。お茶もできなきゃいけない。能も舞えな きゃいけない。島津家の教養は非常に高く、薩摩の文化を育くみ磨いてきたわけです。
十五代沈壽官
そういったこれまでの歴史をふまえて、薩摩焼とつながっている薩摩樟脳をこれから新しくどう
作っていくかということなんです。新しくここから作りだされる薩摩樟脳を「本場薩摩樟脳」と名付けて、
このプロジェクトではそういったことも大切にしながら向き合っていきたいと思っています。
また、今回初めてこの新しい事業を始めようとした時に、地域の方の働く場を作りたいという思いもあ
りました。実は、
12
代が明治8年(1875)に玉光山陶器製造場を設立しました。これはそれ以前に美山
にあった苗代川陶器会社という工場から解雇された職人をそのまま雇用してスタートし、短期間でビジ
ネスとしても軌道に乗せたという経緯があります。また、明治
21
年(1888)には女子画学研究所、女性
のための職業訓練校の第1号を作っているんですよ。この姿に倣い、薩摩樟脳の製造を通じて、この地域
でも多様な方々が生きがいを持って働く場を作れたらという思いもあります。
深港
12 代は技術者でありながら、明治時代には経営に徹していますね。東京に長く滞在して知見を深 めるなどして、経営者としても非常に優れた方でした。経営がちゃんとできなければ作品が良くても生 き残れなかった時代です。著作権法もないわけですから、守られていない中で生き抜かなければならな い時代でした。
十五代沈壽官
興味深いのは 12 代が描いていたであろうバランスシート。貸借対照表ですね。資産と負債と。その資 産の中に普通は機械・設備・工場・建屋みたいなのが入るわけですけども、 12 代の頭の中にはこの一人 ひとりの働き手の持っている可能性とか技量とか、そういったものが全部、資産としてカウントされてい て、それぞれが能力を発揮できる場があったということです。薩摩樟脳というものを通じて、いろいろな 持ち場で一人ひとりが輝くような、そういった場を作っていきたいと思いますね。
深港
今後、薩摩樟脳と薩摩焼のコラボレーションのご予定はありますか。
十五代沈壽官
香炉などはよいかもしれませんね。小さな卵のような薩摩焼の入れ物を作っておいて、上に透かし彫 りを入れて、その中に樟脳の結晶をポンと置く…。
深港
薩摩焼に薩摩樟脳が入るのは、歴史を凝縮した品としてとても素敵ですね。このプロジェクトでは 美山が薩摩焼と薩摩樟脳で新しい未来を創ることを目指しておられます。
十五代沈壽官
僕はですね。地域づくりで一番大切なことは、やっぱり灯台だと思っています。不動のものがそこに
あるということです。変わらない、動かないものがあると、その他のものたちが比較できる。灯台がある
と、みんながより自由になれる。この薩摩樟脳もそういう部分ではとてもアンティークな素材であるし、
トラディショナルな素材ですけれども、逆にこれが一つの不動のものになっていけば、またここから新し
いものも自由に生まれてくるのではないかと。ここからまた新しい美山が生まれてくればと期待してい
ます。そういった想いも込めて、僕たちはここで生まれる薩摩樟脳に「本場薩摩樟脳」と名付けて、ゆるぎ
ないものを作り上げていきたいんです。
僕たちは過去を全て知っているわけではない。過去も未知なんです。未来も未知なんです。でも過去は学
べば学習できるけど、未来はわからないじゃないですか。未来を開く鍵は過去にあると思っているんです。
深港
そうですね。例えば江戸時代は地産地消が基本なわけですから、当時の産業は鹿児島の風土と資源が 駆使されています。一度立ち戻って歴史や文化を、そして産業を見直してみたら、きっと鹿児島にしかない貴 重な財産を再発見できるはずだと思います。そういった意味でも、薩摩樟脳の復活に大変期待しております。
十五代沈壽官
ありがとうございます。
対談日:令和7年4月19日
現在、薩摩樟脳の復活を目指して、仲間たちとプロジェクトを立ち上げて取り組んでいます。 今日はその薩摩樟脳についてお話しできたらと思っています。私たちが手掛けているのは天然樟脳で、 クスノキの幹や枝、根を砕いて蒸留し、結晶化したもののことです。ここ美山は「樟脳製造創業之地」とされ ており、約420年前に朝鮮からこの地に渡来した陶工の一人が日本で初めて樟脳の製法を伝えたという 記録が残っています。この歴史ある薩摩樟脳を現代につないでいく使命を感じて復活に取り組んでいます。